「対人トラブルを繰り返す人」の共通点や生い立ちに表れる「毒親」の存在【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の話
親から繰り返し否定されたり、「産まなければよかった」とまで言われたり、「あなたにはこれしかない」と支配的に育てられたり。そういう人にとって、親以外の他人との距離感をつかむことが、非常に難しい場合がある。「自分などまったく要らない人間」と、つねに心のどこかで思い続けている人が、自信をもって誰かと向きあうことには困難がある。否定されることを恐怖している人は、とにかく相手に好かれようと無理をする。だから相手にいきなり急接近し、それで相手が驚いて引いてしまうと、否定されたと思って恐慌したり、激しく悲しんだり、怒ったりする。
ここらあたりで「じゃあ教会ならなんとかなるんですね。そろそろ結論ですね」と読者は予想しているかもしれない。だが実際にはそんなに都合よくいかない。そうした人はしばしば、わたしに対しても距離感を保つことが難しいからである。わたしに対して救世主のように期待したかと思えば、わたしがその期待通りの応答をしなかったとみるや、幻滅し怒りを露わにする人とも、わたしは今まで何人も出遭ってきた。わたしにとって、いずれもつらい経験だった。わたしはわたしなりに、せいいっぱいその人たち一人一人と向きあったつもりであったが、結果として、その人たちは教会を去っていったのである。
それでも、わたしは思うのである。去っていく人もたしかに多いが、繋がりを持ち続ける人もわずかながらいるではないかと。生い立ちについてさんざん語っておいてなんだが、生い立ちが人間のすべてを決めるわけではない。また、これは宗教だからこそのもの言いなのかもしれないが、学校や会社で通用するコミュニケーションだけが人間のすべてではない。コミュニケーションに挫折するという出来事もまた、コミュニケーションである。コミュニケーションとは、元はラテン語のcommunicatioからきており、com(共に)とmunus(義務、贈り物)から成るという。つまりコミュニケーションは協力して義務を果たしたり、互いに果たしあったり、贈り物を分かちあったり、贈りあったり。そういう「共に生きること」を指しているのだ。
だとすれば、親との関係に苦しみを抱えて育ち、今、親以外の人とのコミュニケーションに困難を抱えている人と出遭うとき。わたしは、その人と共に協力しあって義務を果たしたり、その人と喜びを分かちあったりできるようになりたい。その際には、ときにはトラブルを分かちあい、苦しみを共有することもあるだろう。都合のいいことだけ相手と分かちあおうとするなら、それは分かちあいではなく搾取だろう。
学校や会社で、いちいち相手の生い立ちを詮索することはできないかもしれない。だが、もしも本人が自分の過去を話してくれて、その過去ゆえに現在の苦しみがあると打ち明けてくれたのであれば。そこからコミュニケーション、協力や贈与の分かちあいが始まる。苦しみを苦しみとして打ち明けることのできる場所。これもまた、共に分かちあうコミュニケーションの、発生の場として求められている。
文:沼田和也